この史料館は、長崎造船所が日本の近代化に果たした役割を永く後世に残そうと、1985年(昭和60年)10月に開設したものです。
史料館に利用されている赤煉瓦の建物は、1898年(明治31年)7月三菱合資会社三菱造船所の鋳物工場に併設の「木型場」として建設されたもので、三菱重工業株式会社発祥の長崎造船所に現存する最も古い工場建屋で、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」(2015年登録)の構成施設の1つです。
原子爆弾の爆風にも耐え、100年以上の風雪に磨かれた赤煉瓦は、わが国の近代工業の黎明期に於ける長崎造船所の華やかな門出を偲ばせます。
館内は13コーナーに分かれ、1857年(安政4年)に長崎造船所前身の長崎溶鉄所建設が着手されたときから現在まで900点を展示しています。
日本最古の工作機械や海底調査用潜水器具の泳気鐘、日本初の国産蒸気タービンなど技術の進歩を物語る珍しい品々のほか写真等で長崎造船所の歴史的変遷を紹介しています。
ニュース
- 臨時休館延長のお知らせ
当館は建物工事のため、当面の間、休館とさせて頂きます。
大変ご不便をおかけしますが、ご理解頂けますよう宜しくお願い致します。
史料館展示物のご案内
代表的記念物
長崎造船所には1857年(安政4年)長崎鎔鉄所に始まる約160年の長い歴史がある。
その歴史の一端を物語る記念物の数々をこの史料館に展示しているが、代表的なものとして挙げられるのが泳気鐘、日本最古の工作機械(国の重要文化財)、国産第1号陸用蒸気タービン(機械遺産)鋳鉄柱などの大物記念物である。
これらは何れも長崎造船所発展の歴史を物語る貴重な証である。
泳気鐘
1793年(寛政5年)徳川家斉の命により出島オランダ商館に注文され、1834年(天保5年)長崎に到着したイギリス製の潜水用具で長崎鎔鉄所建設時の岸壁工事に使用された。空気は上部の穴から、光は上部のガラス丸窓から採り、人は中に入って底より海底を調査した。
日本最古の工作機械
長崎造船所史料館に展示中の「竪削盤」が、国の重要文化財に指定されることで、1997年(平成9年)4月18日文化財保護審議会から文部大臣に答申された。
近代歴史資料では我が国初の指定であり、長崎造船所でも国の重要文化財に指定されるのは竪削盤が初めて。
なお、長崎造船所関係の国指定文化財は、この他に史跡指定の「小菅ドック」がある。
竪削盤は長崎造船所の前身である長崎製鉄所建設のため、幕府が1857年(安政4年)にオランダから18台の工作機械とその駆動用蒸気機関を購入したもののひとつ。
19世紀前半にヨーロッパで順次発明された工作機械の各種が一度に渡来した。
1914年(大正3年)、竪削盤は他の機械とともに新設の三菱合資会社彦島造船所(後の下関造船所)に移され1941年(昭和16年)まで使用、1953年(昭和28年)長崎造船所に戻った。
本機は、現存する我が国最古の工作機械として貴重な資料であるとともに、長崎造船所が我が国重工業の草分け的存在であることの証明とも言える。
わが国最初の国産陸用蒸気タービン
わが国最初の国産陸用蒸気タービンで、1908年(明治41年)にイギリスパーソンス社との技術提携により製作された。出力500キロワットで長崎造船所の中央発電所用として1920年(大正9年)まで使用された。
鋳鉄柱
明治(1868年~1912年)初期長崎造船所工場の支柱に使用したものと推定され、その後史料館に隣接の建屋の支柱に転用されたうちの2本である。
官営期コーナー
1857年(安政4年)飽の浦に長崎鎔鉄所の建設が着手され、1861年(文久元年)落成した。建設にあたっては時の長崎海軍伝習所取締役永井玄藩頭尚志の建議に端を発し、オランダの協力を得て進められた。特に主任技師オランダ海軍機関将校ハルデスは、工場建設に必要なレンガ作りから指導するなど、さまざまな困難を克服し、わが国では初の本格的な洋式工場を完成した。これが長崎造船所の起源であり、わが国重工業の発祥である。
1860年(万延元年)の長崎製鉄所
長崎製鉄所鍛冶職一同(1862年(文久2年)頃)
1868年(明治初年)の長崎製鉄所
1885年(明治18年)頃の三菱会社長崎造船所飽ノ浦造機工場
立神第一ドック 1879年(明治12年)5月完成
三菱創業期コーナー
幕府直営の長崎製鉄所は、明治維新で官営長崎製鉄所となり、1871年(明治4年)には工部省所管の長崎造船所と名称を改称した。
そのころ三菱社は自家造船所経営の必要に迫られており、政府が民間に経営を委ねる方針を出した時、機を逸せず長崎造船所の貸与を願い出た。
1884年(明治17年)7月、長崎造船所は三菱経営となり積極的な経営で本格的な造船所として発展していった。
1887年(明治20年)には当社で最初の鉄製汽船「夕顔丸」を竣工させた。
御払下願
1887年(明治20年)4月三菱社々長岩崎彌之助は大蔵大臣伯爵松方正義に長崎造船所(長崎造船局を改称)の払下げを申請し、1887年(明治20年)6月代金45万9千円で許可を受け名実共に三菱社の所有に帰した。
「夕顔丸」の進水
「夕顔丸」の舵輪
「常陸丸」
1898年(明治31年)飽ノ浦造機工場
明治(1868年~1912年)後期コーナー
日露戦争後、長崎造船所は工場施設、機械設備を始め事務所、病院、学校などの整備を行った。
世界遺産に登録された第三船渠の建設、ジャイアント・カンチレバークレーンの設置もこの時代である。
また、外国との技術提携や長崎造船所独自の発明考案等により名実共に東洋一の造船所となった。
この時代、1909年(明治42年)は三菱社の経営になってから25周年であった。
いまなお造船史上に残る豪華客船「天洋丸」、「地洋丸」、「春洋丸」の竣工もこの時期であった。
150トンクレーン
1909年(明治42年)、主機械などの重量物を搭載するため、建設された。現在も稼働中である。
「天洋丸」
天洋丸は大きさ、速力、設備、機関形式等々、当時のあらゆる新機軸をおりこんだ、わが国空前の優秀客船でパーソンススチームタービン19,000馬力を採用し、燃料に初めて重油を使用した。
1902年(明治35年)第一ドック立神船台及び造船工場
わが国初の船型試験場
明治(1868年~1912年)末の造船設計風景
大正期(1912年~1926年)コーナー
大正時代(1912年~1926年)にはいると長崎造船所は本格的な戦艦の建造に着手した。
長崎造船所初の巡洋戦艦「霧島」をはじめ戦艦「日向」、「土佐」を建造したのもこの時代である。
艦艇の大型化に伴い設備の拡張も進められ造船所としては初のガントリークレーンの設置、飽の浦艤装岸壁前面海域の掘り下げ等が行われた。
また、この時代には海外出張者による技術習得も盛んであった。
「霧島」
巡洋戦艦 27,500トン 78,000馬力 27.5ノット 1915年(大正4年)4月竣工
当時世界で最も強力な巡洋戦艦として各国から注目された優秀艦で太平洋戦争に臨み開戦の真珠湾攻撃以来多くの主要海戦に参加した。第三次ソロモン海戦でガダルカナル沖に戦没した。
記念品類(霧島)
「日向」
戦艦 31,260トン
56,000馬力 23ノット
1918(大正7年)4月竣工
「安洋丸」
昭和戦前期(1926年~1941年)コーナー
第一次世界大戦終結後、ワシントン軍縮会議、経済恐慌など海運、造船界が被った影響は極めて大きく、長崎造船所も事業の縮小を余儀なくされたが、不況にあっても技術の開発は怠ることなく続けられ、長崎造船所で開発した純国産MSディーゼル機関はその一例である。また、この時代の長崎造船所における商船建造高はわが国の50パーセント前後を占め、海運界では三菱船隊と呼ばれ世界の海を駆け巡った。
「浅間丸」
サンフランシスコ航路に就航した当時世界最高水準の船で太平洋の女王と称された。1944年(昭和19年)11月南支那海で雷撃により沈没した。
1929年(昭和4年)第三ドックと立神
昭和(1926年~1941年)初期の電気溶接作業
1927年(昭和2年)飽の浦艤装岸壁
「新田丸」
戦艦武蔵コーナー
長崎造船所が太平洋戦争終結まで建造した80隻の世界に冠たる優秀な艦艇の中で、1942年(昭和17年)8月に竣工した戦艦「武蔵」は建艦技術の頂点に立っている。
主力艦の数の不足を個艦の優秀性で補おうと極秘のうちに長崎造船所第二船台で建造された武蔵は、当時世界最大、最強の超弩級戦艦であった。1943年(昭和18年)2月には連合艦隊旗艦となり、太平洋各海域に転戦した。1944年(昭和19年)10月レイテへ向けてブルネイを出撃し10月24日19時35分魚雷20発、爆弾17発、至近爆弾多数を受けシブヤン海に戦没した。
戦後11年経過した1956年(昭和31年)、日本にとっても長崎造船所にとっても初の護衛艦となる、甲型警備艦「はるかぜ」が誕生した。以来、船体建造、強度、運動性能の改善、並びに兵装の充実に力を注いでおり、エレクトロニクスの発達によって艦としての性能は飛躍的に向上している。
昭和天皇行幸
山本連合艦隊司令長官の遺骨を護ってトラック島より横須賀に帰還した「武蔵」に昭和天皇が行幸されたときの記念写真
戦艦「武蔵」
大型鋲締機
「武蔵」竣工記念品 香盒
支綱切断用斧
「はるかぜ」
「あまつかぜ」
「はるな」
「はたかぜ」
会社生活コーナー
長崎造船所における労務、厚生、経理の諸制度は常に我が国産業界の最先端にあった。
1890年(明治23年)には進歩的な工場規則が制定され、1897年(明治30年)には、三菱病院が開設された。
更に、1899年(明治32年)には三菱工業予備学校が設立された。1917年(大正6年)には本格的な職工規則が制定され、その後、常に我が国の社会政策に先んじ、かつ欧米の趨勢を採り入れて積極的な改善が行われた。
経理制度については、長崎造船所が三菱経営になった1884年(明治17年)、郵便汽船三菱会社の規定に従って複式簿記が採用された。更に1897年(明治30年)、荘田平五郎の指導により工業会計および原価計算組織が導入され、その後の諸改善を経て1923年(大正12年)に確立された長崎造船所の原価計算制度は社外各社の制度の基準ともなり、我が国の経理規則制定にも大きく寄与した。
工部省長崎造船所の就業規則
工員永年勤続表彰記章
記章類
荘田平五郎(第2代所長)
1897年(明治30年)から9年間長崎造船所に残した足跡は大きく、わが国では初めて従業員の福祉、教育に力を注ぎ三菱精神の基礎を確立した。
三菱工業予備学校 教室風景
1923年(大正12年)7月、三菱球場にて所内硬式野球大会開催
三菱会館
構内汽車
貴賓御来訪コーナー
創業以来長崎造船所にお迎えした来賓は天皇家をはじめ皇族方並びに外国の国王等数多い。 明治天皇は1872年(明治5年)、大正天皇は1900年(明治33年)(当時皇太子)、昭和天皇は1920年(大正9年)(当時皇太子)、1949年(昭和24年)、1969年(昭和44年)の三度、それぞれご来所になっている。
今上陛下は1969年(昭和44年)に船型試験場を、皇太子殿下は1977年(昭和52年)に香焼工場等をご見学になっている。
会社行事としては1957年(昭和32年)には創業100周年記念祭典を、更に2007年(平成19年)には創業150周年記念式典を、それぞれ挙行した。また、1965年(昭和40年)竣工の立神30万トンドック、1972年(昭和47年)竣工の香焼工場など、工場設備の更新、拡張を逐次行ってきている。
昭和天皇 長崎造船所を御視察
昭和天皇、香淳皇后 長崎造船所を御視察
ベルギー国王御夫妻御来訪
造船祭
創業100周年の長崎造船所全景
立神30万トンドック2基完成
世界に誇る新鋭設備香焼工場竣工
新ボイラ工場(香焼・深堀地区)完成
発電プラントコーナー
長崎造船所はタービンについては、1908年(明治41年)に国産初の舶用蒸気タービン(9,000馬力)を、続いて同年国産初の陸用蒸気タービン(500キロワット)をそれぞれ製作した。
ボイラについては、1885年(明治18年)長崎造船所初のスコッチ型舶用ボイラを、また1911年(明治44年)同所初の陸用水管式ボイラを、それぞれ製作した。戦後には、ボイラは米国Combustion Engineering(CE)社と、タービンは米国Westinghouse (WH)社とそれぞれ技術提携を行い、大容量プラントの生産体制を整えた。
ディーゼル・エンジンについては、1924年(大正13年)スイス、スルザー・ブラザーズ社と技術提携を行い、幾多の優秀な製品を世に送り出した。その後、1932(昭和7年)にはMS型1号機を、1955年(昭和30年)にはUE型1号機を製作し多くの実績をあげたが、1980年(昭和55年)に横浜造船所(現在の横浜製作所)へ移管された。
更に、長崎造船所は地熱発電、風力発電、セラミックス、諸産業機械などの新規分野においても努力を傾注し実績をあげている。
三菱方城炭坑ネスドラム式陸用ボイラ
関西共同火力尼崎第二発電所向75,000キロワットタービン
1938年(昭和13年)日本初の溶接ドラムの破壊試験
スペイン、エンデサ・コンポスティージャ発電所向け3号タービン330,000キロワット
1968年(昭和43年)受注した本タービンはその後のスペイン向け350,000キロワット10台を、メキシコ向け300,000キロワット16台はじめとする長崎造船所の大型タービン輸出の道を開いた初号機として大きな意義を持っている。
(写真は同型のプエンテス発電所向け1号タービン350,000キロワット)
東京電力袖ヶ浦2号機(1,000メガワット)用ボイラ3,100トン/時
世界初のダブルフラッシュサイクル方式地熱タービン
乗用車用液圧式タイヤ加硫機(PC-X)初号機
戦後の造船コーナー
戦後の造船部門は大きく4つの段階に沿って発展した。
第1段階は昭和20年代(1945年~1954年)における基盤作りの時代であり、計画造船を背景として、1949年(昭和24年)頃から始まった溶接技術とブロック工法の研究開発によって幾多の優秀な船舶を生み出した。
第2段階は昭和30年代(1955年~1964年)の第1次輸出船ブームであり、この時期、長崎造船所は単一造船所として進水量で世界一となった。
第3段階は1962年(昭和37年)からの第2次輸出船ブームであり、タンカーを中心として、10万トンから40万トン以上まで急速に大型化した。
第4段階は1973年(昭和48年)秋の第1次石油ショック以降の世界的構造不況時代である。大型タンカーの代わりに、船種は小型で多様化の方向へ変わり、操業量が極度に低落した。1985年(昭和60年)秋からの為替レートの急激な変動で日本造船界は再び苦境に立たされたが、幾多の徹底的な構造改革の断行により、新たな発展を続けている。
ドーニヤ・アリシア
スタンバック・ジャパン
太和丸
デイビッド・パッカード
新豊丸
リバー・ボイン
客船コーナー
長崎造船所は2016年(平成28年)と2017年(平成29年)に2隻の客船を建造し、その結果総計102隻の客船、貨客船を建造した。
これらの中には、天洋丸、浅間丸、あるぜんちな丸、新田丸などが含まれている。戦後長らく客船建造は途絶えていたが、1990年(平成2年)の世界最高級のクリスタルハーモニー竣工により約50年振りに客船建造が再開された。
本コーナーには客船、貨客船の生命とも言うべき船内装飾の元になったカラースキーム(室内装飾画)の数々、浅間丸の食事メニュー、その他記念品などを展示している。
あるぜんちな丸
「浅間丸」用カラースキーム
クリスタル・ハーモニー
岩崎家コーナー
岩崎彌太郎は藩政改革のため閉鎖予定のあった土佐藩経営の開成館を受け継ぎ、1870年(明治3年)に九十九商会を設立して海運業に乗り出した。これが三菱の起源である。彌太郎はこの他炭坑、金属鉱山、造船その他当時国家的に重要と見られた事業に積極的に投資した。彌太郎の跡を継いだ弟の彌之助は海運業から手を引き三菱社を設立、炭坑・鉱山・造船の近代化に注力し、本格的な事業の確立に務めた。各事業が隆盛を極めわが国産業界の中心的役割を果たしたのは、久彌(彌太郎の長男)の時代である。小彌太(彌之助の長男)は久彌の跡を受け、三菱合資会社から各事業部を分離独立させて株式会社とし一大企業集団を形成した。1945年(昭和20年)終戦により財閥解体となるまでの75年間岩崎家の四人の社長は三菱発展の原動力として活躍した。
- 三菱マークの由来
- 三菱の社章は1870年(明治3年)10月、岩崎彌太郎社長の創案によるものといわれている。1914年(大正3年)6月、三菱合資会社が現在のマークを社章として登録した。
その他の展示物
長崎造船所が創業以来研究を重ね作り上げた機械の中で、記録的な成果をあげたものなどを展示している。
主なものとして、1954年(昭和29年)開発の日本初の船舶用ガスタービンエンジンである北斗丸のオープンサイクルガスタービン、1963年(昭和38年)に採用された2サイクルユニフローUEV30/40ディーゼルの実験機関、1933年(昭和8年)完成し41年間運転された当時東洋最大の関西電力尼崎第一発電所1号タービンなどがあげられる。
「北斗丸」500馬力オープンサイクルガスタービン
1954年(昭和29年)わが国最初の舶用ガスタービンとして長崎造船所で開発されたもの。
運輸省航海訓練の練習船「北斗丸」で1958年(昭和33年)まで実船実験に供されガスタービン技術の発展におおいに貢献した。
6UEV30/40実験機関
2サイクルユニフローUEV30/40機関開発のため1960年(昭和35年)完成され当時においては世界最高の過給度を持つ実験機関である。
その実用機12UEV30/40機関は1963年(昭和38年)完成し、それ以降多くの護衛艦主機として採用され、マルティプルギヤード機関の基礎をつくった。
大型機関ではわが国唯一の自己開発機関の開発期において過給法を含む性能、構造等広汎に亘る技術の分野で多くの基礎実験に活用され、UEVディーゼル機関の発展の基を作った。
スペイン向けタービンローター破片
1970年(昭和45年)高速回転中の50トンの大型タービンローターが破裂するというタービン史上に残る事故を経験した。
破裂の起点と疲労破面を含む破片を回収し展示してある。
破壊力学上貴重な資料であり材料強度にたずさわる者にとって必見の価値がある。
この事故によって日本のローター製造技術は飛躍的に改善された。
又、これを契機として引続きスペイン向け350,000キロワット10台を含む26台のタービンを受注した。
長崎造船所、大型タービンの輸出はこれよりスタートし、今日の全世界への輸出拡大を招来した。
白鷹丸の主機(往復式蒸気機関)
1928年(昭和3年)から55年間、長崎造船所曳船として活躍した白鷹丸の主機
162トン 900馬力 10.279ノット
東京電力(株)鶴見発電所1号タービン溶接ローター
シャフトに耐熱強度の優れたディスクを溶接するというわが国では画期的な製造方法により作られた溶接ローター。
東京地区の重要な電力を供給し、1962年(昭和37年)以降は負荷調整火力として毎日発停運転をされ、総発停回数3,958回 総運転時間82,888時間に耐えた。
関西電力尼崎第一発電所 1号タービン
1933年(昭和8年)に完成した、わが国産業技術史上記念すべきタービン。蒸気温度(430℃)、出力(53,000kW)共に当時において東洋最大の記録機であり、41年間の永きにわたり近畿地区の主要電力供給源として活躍した。
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