#015 村上 崇『ラグビーをできる喜び。』

ダイナボアーズのソウルであり、歴史の生き証人にして、今なお欠かせぬ重要な戦力である。2000年に入社して18年目、現在ではチームが唯一トップリーグを戦った2007-2008シーズンを知る数少ない現役選手のひとりになった。この夏で36歳になる村上崇は、今日も密集戦に芯を通すべく黙々とスパイクを芝に食い込ませる。

ラグビープレーヤーとしての足跡を振り返れば、まさに「雑草」の表現そのものだ。中学時代に所属したバスケットボール部では、「1年の時からチームで一番背が高かったのに、3年間で一度も試合に出られなかった」。大船渡工業高校に入学した時も、腕立て伏せや懸垂を1回もできないほどだった。

「それくらい、運動ができなかったんです」

それなのに、当初体育系部活動に入るつもりすらなかった青年は、よりによって際立つ長身に目をつけたラグビー部の監督から熱烈な勧誘を受けることになる。殺し文句は「毎年必ずラグビー部から採用してくれる会社がある。就職は心配しなくていいから」。入部してみると3年生は20人近くいたものの2年生の部員はゼロで、同期も自分ともうひとりの2人だけだった。

高校3年間で15人制の試合に出場した経験はほとんどなし。それなのに、大船渡工業の2学年上の津嶋俊一先輩が新日鉄釜石で活躍する姿を見て「何の根拠もなく『俺もできる』と思い込んでしまった」。だから当然卒業後も社会人チームでラグビーを続けるつもりだった。ところが3年生に上がる頃になって、採用されるはずだった会社から突然「今年はとれない」との連絡が入る。あわてたのは監督だ。「就職は心配なし」と言って誘った手前、預かった生徒を路頭に迷わせるわけにはいかない。四方八方の知人に掛け合ってくれた結果、監督と同じ中央大学ラグビー部のOBである武山信行・元ダイナボアーズGMに話がつながった。

「僕のような選手を見るためだけに、わざわざ武山さんが岩手県まで来てくださって。『とりあえず身長はあるし、そこそこ動けるから、とってみようか』ということになったようです」

まともに試合もできなかった環境から、いきなり社会人ラグビーの世界へ。当然ながら入社当時は困難の連続だった。

「運良く1年目の春から練習試合に出させてもらったのですが、本当に“何も”できないんです。挙げ句の果てに、それまでスパイクを履いて走った経験すらあまりなかったので、足の甲の疲労骨折になってしまって。当時の相良(南海夫)監督に、『体ができるまでラグビーはやらせない』と言われて、1年目はほとんど別メニューでした」

それでもチームが東日本リーグに昇格した入社2年目で公式戦初出場を果たすのだから、秘めるものはあったのだろう。今でもよく覚えているのは、その頃圧倒的な強さを誇っていたサントリーとの開幕戦だ。NO8斉藤祐也やCTBアルフレッド・ウルイナヤウら強烈なメンバーが並ぶ相手にいいように振り回され、0-127という記録的な大敗を喫した。一方で、若い頃のそうした経験によってラグビー選手としての地金が鍛えられたのも、事実だった。

「体力もないしルールもよくわかってないような人間を、よくぞ辛抱強く使ってくれたなと思いますよね。そういう選手を、すぐに結果が出なくても使い続ける懐の深さは、ウチのラグビー部の伝統というか、風土だと思います。武山さんが『なんであんなヤツ拾ってきたんだ』と言われてなかったならよかったのですが(笑)」

ポジションはもちろんロック一筋。何試合かフランカーで出場したこともあるが、「何の意味もなかったですね。ただロックが3人になったというだけ」。オールブラックスの屈強なるアスリート、あのトロイ・フラベルともコンビを組んでスクラムを押し、ラインアウトを跳んだ。

「フラベルは気性の荒さがクローズアップされがちですが、すべての基本スキルのレベルが恐ろしく高かった。スクラムからラインアウト、パス、キックにいたるまで、何をやらせても段違いにうまい。本当にいろんなことを学ばせてもらいました」。

これまでのキャリアでもっとも印象に残っている試合のひとつは、2007年1月27日、トップリーグ昇格を決めたトップチャレンジの近鉄戦だ。その週の練習はチームメイトの誰もが「負ける気がしない」と口をそろえるほど出来がよかったが、ただひとり村上だけは不調にあえいでいた。ある日の練習後、当時のキャプテンだった佐藤喬輔・現監督から、厳しい口調で叱咤された。「昔のお前は雑だったけど、一発で仕留めてやるという迫力があった。今は確かにミスも減ったけど、ただソツなくやってるだけに見える」。この言葉で吹っ切れると、試合ではビッグタックルを連発してチームを勢いに乗せた。

「無我夢中でプレーして、気がついたら勝っていた、という試合でした」

あんな身震いするような試合を、もっともっと味わいたい。そんな思いでこの歳までプレーを続けてきた。しかし2008年の降格以降、チームはトップリーグ復帰を果たせていない。ここ5シーズンは毎年入替戦まで進みながら、あと一歩で昇格を逃してきた。

「チームの実力、レベルは確実に上がってきています。ただ、最後の最後で結果に結びつけられない。その理由が何なのかと考えた時、トップリーグのチームはそこにいる選手一人ひとりがトップリーグにふさわしい選手でならなければならない、と思うんです。今のダイナボアーズがそうなっているかといえば、自分も含めてまだそうではないのかな、と」

特に昨季は個人的に不完全燃焼の思いが残るシーズンだった。公式戦でメンバー入りしたのは3試合のみで、いずれもリザーブスタート。出場は2試合、トータルプレータイムは43分にとどまった。

「昔は年上の先輩たちを見ていて、『何が何でも試合に出てやる』という部分がだんだん薄れていくのかな…と思っていたんです。自分が試合に出ることより、チームのためにどうするかということのほうが、ベテランになるにしたがって大きくなるんだろうな、と。でも実際はまったくそんなことはなくて、歳をとればとるほど、試合に出られないのが悔しくなるのがわかった。単純に自分の実力不足なのですが、『チームのため』と『自分のため』という部分で、ジレンマはありました」

もっとも、そうした気持ちを失っていないからこそ、未だチームにとって欠かせない存在であるのも確かだろう。「影響力とか、威厳という面で、昔自分で思い描いていたようなベテランにはまったくなっていないですね(笑)」と自嘲するが、これだけキャリアを積んできたベテランが若手と同じように必死になれるということは、チームの文化を築く上で大切な意味がある。

「今や大卒の選手とも一回り以上違いますから。今年入ったPRの村上卓史なんて、何の縁か名前も同じなら干支も酉年で一緒(笑)。ただ、最近は少しずつ変わってきましたが、それでもウチは高卒選手が多いですよね。現場で働いている選手も、他のチームに比べて多い。ブルーカラーの会社の中で、同じ職場で働く人たちが誇りに思えるような存在にならなければ、という思いはあります。『ウチの職場のヤツはトップリーグでやってるんだぞ』と言っていただけるようなチームになりたいですね」

自分という人間を育ててくれたクラブ。ダイナボアーズでの歩みを振り返り、そう感謝を口にする。多くの人に出会い、学び、支えられてきたからこそ、ここまでラグビーを続けることができた。そんな思いがつよいぶん、チームへの愛は深い。

「ラグビーを続けたかったのに、僕より先に辞めていった選手がたくさんいる。そういう人たちのことを知っている人間がチームにいてもいいのかな、と。そういう部分で、ダイナボアーズのDNAをもっと強く、濃くしていきたい」

入社してからの17年間で、クラブの活動環境も飛躍的に整備された。おかげで心身ともに「コンディションは万全」と笑う。もう一度、あの舞台で戦うために。村上崇はプレーできる喜びをかみしめながら、今シーズンもグラウンドに立つ。

Published: 2017.04.11
(取材・文:直江光信)