#040 阿久田 健策『このチームが、好きだから。』

30歳を大幅に過ぎてなおトップレベルでプレーできるラグビー選手は、決して多くはない。ほとんどのプレーヤーはケガや肉体的な衰え、若手の台頭など様々な事情によって、その手前でブーツを脱いでいく。

阿久田健策はこの夏、34歳になった。現在のダイナボアーズではBKの最年長、在籍年数もSH西舘健太の13年に次ぐチーム2番目の11年である。

同世代で今も現役を続けているのは、大半が学生時代から華々しい実績を残してきたエリートたちだ。そうした中で、阿久田の歩んできたキャリアは異彩を放っている。東生野中学時代は、幼なじみで布施ラグビースクールからのチームメイトである元ダイナボアーズHOの杉本剛章や、元豊田自動織機のSH吉田正明らとともに、激戦区大阪において肩で風を切る存在だった。しかし、進学した関西創価高校では大きな挫折を味わう。

「当時のトンナマ(東生野)はすごく強くて、杉本とか吉田とか同期5人が工大(大阪工大高、現常翔学園)に行ったんです。僕も工大か創価で迷ったのですが、花園に出たことのないチームを自分が連れて行くという気持ちで創価を選びました。ところがそこで鼻っ柱をパーンとへし折られて。3年の時は花園予選の決勝で近大附属に31-31で引き分けて、抽選で花園に出られなかったのですが、その試合もメンバーにすら入れませんでした」

当然ながら強豪大学から誘いの声はかからず、卒業後は就職するつもりでいた。そんな阿久田を熱心に誘ってくれたのが、朝日大学の吉川充監督だった。当時の朝日大学は東海学生Aリーグの上位をうかがう途上にあり、部員のラグビーに対する思いには温度差があった。しかし3年生になった2005年度、吉川監督の情熱あふれる指導もあって全国地区対抗大学大会で大学として初となるタイトルを獲得すると、失いかけていた感情がふたたびふくらみはじめる。4年時は、キャプテンの重責も背負った。

「入学した頃は半分の部員が練習に参加しないような状態で、自分も1、2年の時はそっち側でダラダラした生活を送っていました。高校時代の挫折を引きずって、ラグビーを斜めに見るようなところがあったんです。でも3年生の時に地区対抗で優勝して、中学時代の『ラグビー楽しいな』という感覚が戻ってきた。キャプテンになった4年の時は前の年が良すぎた反動でチームが機能せず、すごく苦しいシーズンだったのですが、今振り返ればそれもいい経験だったと思います」

ただこの時点でも、卒業後にラグビーを続けるつもりはなかった。自分の知る限り大学の先輩で社会人の強豪チームに進んだ選手はいなかったし、1、2年時の怠慢のツケで留年することも決まっていた。しかしここで、思わぬ幸運が巡ってくる。

「吉川さんから、『オーストラリアに行けへんか』と言われたんです。半年間留学して、帰ってきたら大学で試合に出ろ、と(笑)。今は毎年朝日から留学しているんですけど、その最初が僕でした」

オーストラリアではシドニー北東の街マンリーのクラブに所属し、現地の選手に混じって楕円球を追った。かのジョージ・スミスやマイケル・フーパーを輩出した強豪チームで過ごす日々は、ラグビー観が変わるような経験の連続だった。たまたま同時期にマンリーでプレーしていた赤井大介氏(現立命館大学コーチ)と出会い、プロ選手として海外に挑戦するラグビーマンの凄みを間近で体感することもできた。そうした時間を重ねるにつれて、ラグビーと向き合う気持ちも変化していった。

「こんなにすばらしい環境があるのかと衝撃を受けました。赤井さんと一緒に生活させてもらって、プロ意識の高さに『ラグビー選手ってこんなにかっこいいんや』とも思った。この時の経験から、社会人でもラグビーを続けたいと思うようになりました」

帰国後、いくつかの社会人チームの練習に参加させてもらい、複数のクラブから「ウチに来てみないか」とオファーを受けた。その中で三菱重工相模原を選んだのは、こんな理由からだった。

「その頃の東海リーグの選手なんて誰も知らなかったと思うんですけど、中京大学の中本光彦監督が重工の藤田さん(幸仁/PR)の中央大学時代の先輩で、藤田さんがちらっと『SOを探している』という話をされた時に、中本監督が『東海リーグにおもしろい奴がいるぞ』と紹介してくださったそうなんです。同じタイミングで、当時重工の1年目だった杉本もプッシュしてくれていたみたいで。そうしたら、今早稲田で監督をされている相良さん(南海夫)が、わざわざビデオを撮りに来てくださった。それがきっかけで練習にも参加させてもらって、こんなに親身になってくれるチームでやりたいと思って、重工に行くことを決めました」

入社したのは、ちょうどダイナボアーズがトップリーグから陥落した翌年の2008年。5年目の2012年シーズンから2016年までコンスタントに二桁以上公式戦出場を継続し、2015年にはバイスキャプテンも務めた。そして気がつけば、今やBKの最年長選手に。同世代やそれより下の選手が年々引退していく中、ここまで現役を続けられているのは、胸を張れる選手人生と言っていいだろう。

もっとも本人は、「これまで何度も、もうやめようと思っていた」と言う。

「やっぱり結果が出てないので。特にバイスだった2015年の入替戦でNECに負けて以降は、毎年『今度こそやめよう』『でもやっぱりまだやりたい』という葛藤の繰り返しでした。ただ、こうやってチームに残してもらっているということは、何か自分にできることがあるからだとも思う。だからポジションも、本当はSOをやりたいけど、いろんなところをできる選手もチームに必要だと思って、SHを含めBKの全ポジションをやりました。何より、朝日からオーストラリアに行って、トップリーグで活躍するという目標を持ってこのチームに入ったのに、その目標に対して結果を残さずにやめるのはイヤだった」

当然ピッチに出ればまだまだやれる自信はある。一方で、ここ数年はプレー以外の部分での役割も強く意識するようになってきた。広い視野でチームを見渡し、年上年下問わず多くの選手に声をかけ、ムードが落ちかけていたらすかさず笑いにして明るいほうへ持っていく。グラウンドで同じようにきつい練習をこなすプレーヤーの中に、そうした存在がいる意味は大きい。

「同い年の訓也(小林/FL)や安江(祥光/HO)のような実績もないし、キャラ的にも年上キャラというよりおちゃらけ系なので。30を超えてからは、そういうことを考えるようになりましたね。特に今のチームは、レギュラー組とノンメンバー組に差があって、練習を見てもノンメンバー組は意識が低いしミスが多い。僕はその間くらいにいるんですけど、そこの穴埋めは絶対に必要だと思っていて。試合に出ない選手の力を上げていかないと、厳しい試合は勝ち切れないですから」

そうした変化を受け止められずやめていく選手も少なくない中で、なぜそうなれたのか。そうたずねると、「そもそも自分をベテランとも思っていないですから」と答えが返ってきた。「いまだに、年上だろうが年下だろうが、いいところは全部盗んでやろうと思ってやっている」といたずらっぽく笑う表情からは、本当にラグビーが好きで、このチームが好きという気持ちが、強く伝わってくる。

12月に入り、いよいよ運命の入替戦が間近に迫ってきた。トップチャレンジリーグのファーストステージではなかなか思うような戦いができなかったダイナボアーズだが、1日に駒沢で行われたセカンドステージ第2節の近鉄ライナーズ戦では、気迫みなぎるディフェンスを軸に今季一番の内容で30-19と快勝。チームが大きく上昇するきっかけを、ここにきてついにつかんだ。

この試合で阿久田は今季初めてメンバーに名を連ね、後半23分にリザーブから途中出場を果たした。プレータイムは20分強ほどだったが、チームに自信をもたらす勝利に、十分な手応えを感じたはずだ。

トップチャレンジリーグの開幕前、本人はこんなことを語っていた。

「クープス(グレッグ・クーパーHC)が話すのは、最初から入替戦に勝つことだけを見てはダメだ、と。そこまでの積み重ねがあって入替戦があるのだから、目の前の仕事を一つひとつしっかりやり続けようと言っていたのがすごく印象的でした。『FBが裏に抜けた時、まずは抜けたFBをサポートするのが大事だろう。その次のプレーを考えたりはしないはずだ』とたとえ話をされて、その通りだな、と思った。これまでの経験から、僕らは『ここで勝っても入替戦に勝たなきゃ意味がない』となっていた。たしかにその手前ができてないのに、入替戦に勝てるはずがないですよね」

ダイナボアーズでの11年の歩みは、トップリーグ昇格を逃し続けてきた悔しさの歴史でもある。脳裏に刻まれた痛恨の記憶が多いぶん、「このチームでトップリーグへ」の思いは強い。

「いつも最後に笑えない。ずっと最後に悔しさを味わってきました。だから今度こそ笑って終わって、トップリーグでプレーしたい。1試合でもいいんで」

様々な背景を持つ選手たちが集まって、ひとつのチームができる。こんな人間のいるチームは、きっと強い。

Published: 2018.12.14
(取材・文:直江光信)