#027 土佐 誠『不屈の求道者。』

スポーツに試練はつきものだ。立ちはだかる困難に立ち向かい、辛苦を乗り越えなければ、その先のステージも進むことはできない。「順風満帆の競技生活だった」と振り返ることのできる幸運な人であっても、重圧や悔しさに眠れぬ夜を過ごしたことは、きっと一度や二度ではないだろう。

それにしても——。これほど苛酷な経験をしてきた選手は、そうはいないのではないか。土佐誠。どんな苦境にも心折れず、失意の底から這い上がり、この夏で31歳になった。

尾道高校から進んだ関東学院大学では、当時学生ラグビーの頂点に君臨していたチームで1年時からレギュラーに定着し、2年で大学選手権優勝の一員となった。しかし3年秋、部員の大麻事件という激震がクラブを襲う。同年度の大学選手権出場辞退、半年間の活動停止を経て迎えた最終学年はキャプテンを務め、「ラグビーをやれるような状況ではなかった」という非常事態の中、空中分解寸前のチームを懸命に前へ押し進めた。

卒業後はNECに入社。1年目にオックスフォード大学に留学し、ケンブリッジ大学との伝統の定期戦に出場してイギリスにおける文武両道の象徴といわれる「ブルー」の称号を獲得する。NECでもトップリーグ有数のパワフルなバックローとして順調にキャリアを重ねていたが、プレーヤーとしてこれからという4年目の2012年シーズン、またしても突然の悲劇に見舞われた。

「寮でシャワーを浴びている時に倒れて、目が覚めたら救急車の中でした。それで検査をしたら、『てんかん』と言われて。たしか、エディー・ジョーンズが監督になって最初の日本代表のトレーニングスコッドに選ばれて3日後くらいだったと思います」

てんかんとは発作を繰り返す脳の慢性疾患で、けいれんや意識消失など様々な症状をともなう病気だ。土佐の場合、原因は不明ながら脳に腫れた部分があり、そこからてんかん発作を誘発する電気的興奮が出ているという診断だった。しばらくは薬で発作を抑えながらプレーを続けたが、2014年、完治を目指し開頭手術に踏み切る。

「主治医の先生によれば、発作を誘発している部分を切除すれば治る、と。でも正直怖かったし、かなり迷いました。そんな時、たまたまロッカールームで隣だったのが元ウエールズ代表のガレス・デルヴという選手で、彼はレベルズに在籍していた時、同じように開頭手術をして復帰したオーストラリア代表のジュリアン・ハクスリーと一緒にプレーしていたんです。そこからいろいろ話をつないでくれて、復帰したハクスリーの試合の映像も何度も見ました。日本国内ではコンタクトスポーツで開頭手術をした選手の例はないそうなのですが、ハクスリーの存在には、すごく背中を押してもらいました」

手術からリハビリを経て競技に復帰したのは、約1年半後。その間はトレーニングもできず、110キロあった体重は90キロまで落ちた。「試合にも出てないし、いろんな人から『どうしたの?』と聞かれました」。それでもグラウンドに戻ってきたのは、ラグビーへの情熱が衰えなかったからだった。

「主治医の先生も『もう大丈夫』と太鼓判を押してくれましたし、自分自身、ラグビーをやりたい思いが強かった。もっと強くなりたい、もっとうまくなりたい、と」 手術前は引退を意識したこともあったのに、ピッチに帰ってくると、より高いレベルでやりたい、自分がどこまでやれるのかチャレンジしたいという思いが日増しに強くなっていった。数シーズンに渡って会社側と話し合いを重ねた末、今春NECを退社。オーストラリアでプレーする決断をする。

「以前はできるところまでラグビーをやって、引退後はNECに残って働ければ幸せだと考えていました。でも頭のことがあって、不本意な形で急にラグビーができなくなるかもしれないとなった時、あれもやっておけばよかった、これもやっておけばよかったということがたくさんあった。残り少ない現役生活の中でどれだけ自分を磨く機会があるかと考えると、海外に行くしかないと思ったんです。実は去年ニュージーランドに短期留学した時も、オタゴ州代表のワイダートレーニングスコッド(育成枠)の話があったのですが、ケガ人が出るのを待つより出場機会がほしかったので日本に帰国しました。ただNECでも外国人選手の存在や若手の台頭があって、なかなか試合に出られなかった。ずっとNECと一緒に強くなりたいという思いでやってきて、僕が若手に追い出される形になるのは逆にいいことだと思いましたし、去年はシーズン途中にヒザを手術した後は出場機会もなかったので、退社してオーストラリアに行かせてもらうことになりました」

オーストラリアでは、代表選手も数多く輩出しているシドニーのイーストウッドに所属し、シドニー最高峰のクラブリーグ「シュートシールド」を戦った。もっとも、所属選手の大半は別に仕事を持つセミプロで、日本に比べチーム練習も少ないため、平日の午前中は自分でトレーニングし、午後はもっぱら仕事探しに動き回った。住まいと車はクラブの紹介で格安のものを用意してもらったものの、プレーヤーとしての報酬はほとんどなく、貯金を崩しながら武者修行のような生活を送った。

3月末に渡豪し、2日後に行われたシーズン前のトライアルマッチ最終戦にセカンドグレードのNO8でフル出場して、ファーストグレード入りを決める。公式戦では途中出場が多く、シーズン終盤はセカンドグレードでプレーすることもあったが、スーパーラグビー選手もゴロゴロいる環境で1シーズンを過ごしたことで、プレーも考え方も変わった。

「以前はいい気になっていたところがあったんです。でも今は自分にフォーカスして、どれだけ自分が成長できたかということを、毎回の練習や試合で考えるようになりました。プレー面では、それまでは言われたことを全力でやるという感じだったのが、自分で考えながらやるようになった。もちろん前に出る力が自分の持ち味なのは変わらないのですが、それ以外の一つひとつのプレーを、毎回ベターにできるよう今は意識しています」

そして、貴重な経験と手応えをつかんだ土佐が次の新天地として選んだのが、NEC時代から親近感を持っていたダイナボアーズだった。トップリーグを含め様々なチームから誘いの声がかかる中、なぜここでプレーする決断をしたのか。その理由を、本人はこう語る。

「NECで何度かやったことがあって真面目ないいチームという印象がありましたし、地元のファンのサポートがすごいというのは、対戦しながら感じていました。試合に出られるか出られないかは僕次第ですが、その他の部分では何も不安がなかった。スタッフ、選手、サポーターまで、いい人、いいキャラクターがそろっている。どこの国に行っても、いいチームにはいいキャラクターがそろっていますから」

8月29日に帰国し、翌30日に加入。11日後の9月10日には、トップチャレンジリーグの釜石シーウェイブスとの開幕戦でリザーブに入り、後半17分から途中出場してさっそくデビューを果たした。初めて暮らす土地、新しい環境に「まだいろんな手続きでバタバタしています」と苦笑するが、つい先日までオーストラリアでタイトなゲームを戦ってきただけに、コンディションにはまったく不安はない。第2節以降は先発を務め、持ち前の体を張ったプレーで存在感を示している。

「覚えることが多くて、みんなに怒られながらやっていますが(笑)、試合に出られているのはやっぱりうれしいですね。ただ、パッと入った僕がパッと試合に出るということは、NEC時代に僕が感じていた悔しさを味わっている選手もいるはず。そういう意味で、大きな責任を感じています」

チームは開幕から4連勝でセカンドステージAグループ進出を決めた。最初の関門となった10月22日の日野自動車戦は16-22で苦杯を喫したが(土佐はケガのため欠場)、ここで味わった悔しさは、本当の意味で覚悟を決めて力を結集させる上での何よりのモチベーションになるはずだ。そして数々の修羅場をくぐり抜けてきた土佐の存在は、プレーの激しさもプレッシャーも格段に上がるこの先の戦いに向け、さらに大きな意味を持つだろう。

「環境はトップリーグクラブとなんら遜色はない。ただ、三菱の選手たちには『自分たちの手の届かない位置にあるんじゃないか』という感覚があるのかもしれません。ここからは自分たちのラグビーを信じて、プライドを持って戦うことが大事。誰々がいるからだ丈夫だろうではなく、絶対に上のレベルでやるという思いを全員で持って、準備をしていきたい」

度重なる苦難に「なぜ自分ばかりが」と思い詰めることもあった。「だからこそ、こういういいチームに迎え入れてもらえたことを幸せに感じるんです」と今の心境を語る。絶望するような経験だったけれど、そのぶん人間としての深みと凄みは増した。不屈の求道者が本当の喜びをつかむのは、これからだ。

Published: 2017.11.14
(取材・文:直江光信)